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戦争と性暴力の比較史へ向けて

, 上野 千鶴子

によって 上野 千鶴子
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内容紹介 戦争における性暴力を当然視・許容する語りに抗しつつ、また、生存戦略として行使される女性のエイジェンシー(行為主体性)を否定せずに、戦争と性暴力を問題化することはいかに可能か。性暴力当事者間の関係性のグラデーション(敵味方/同盟国/占領地/植民地、強姦/売買春/取引/恋愛/結婚)に注目し、さまざまな時代背景のなかでどのような加害・被害の語りが社会的に許容されるか、また、時期によって語りと聞き取りがいかに変遷するかを、さまざまな事例を比較して分析する。 内容(「BOOK」データベースより) 本書は、戦時性暴力における当事者間の関係の連続性(「敵味方・同盟国・占領地・植民地」「強姦・売買春・取引・恋愛・(結婚)・出産」)に注目し、歴史的な文脈のなかでどのような加害・被害の語りが社会的に許容されるか、そして文脈の変化によって語りがいかに変容するかを、比較史の視座から分析する。「戦争に性暴力はつきもの」という普遍主義に陥ることなく、また女性のエイジェンシー(行為主体性)を否定することなく、戦争と性暴力を問題化することはいかに可能か。 著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より) 上野/千鶴子 1948年生。東京大学名誉教授、認定NPO法人ウィメンズ・アクション・ネットワーク(WAN)理事長。専門:社会学、ジェンダー研究 蘭/信三 1954年生。上智大学総合グローバル学部教授。専門:歴史社会学、戦争社会学 平井/和子 1955年生。一橋大学社会学研究科非常勤講師。専門:近現代女性史、ジェンダー史(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
戦争と性暴力の比較史へ向けてを読んだ後、読者のコメントの下に見つけるでしょう。 参考までにご検討ください。
正直、「一冊の本を読むとはこのようなことであったか」と久々の感慨をもたらされた。戦争と性暴力の比較史という、多くの人が「重苦しい」と思いがちなテーマの書でありながら、かつ実際に、それぞれの論者が研究の成果をきわめて堅牢に(この点について「実証を疎かにしている」「概念のお遊び」といった先入観に満ちたレビューは笑止千万だった……自ら恥じて削除したようだが)述べていながら、それでいてなお、この本にはそれだけには留まらない重層性がある。上野千鶴子はこの本について「2年間にわたって準備してきた」「社会学、歴史学、オーラルヒストリーのクロスオーバー」「この分野でのマイルストーンになればよい」と呟いている(https://twitter.com/ueno_wan/status/966688770278899712)。実際、同テーマをめぐるここ三十年の内外の動向について語る上野「序論」は熱気に満ちている。さまざまな研究者(我々は読書レベルに応じて、そのなかの幾人かを知っていたり、まったく知らなかったりするわけだが)の成果が理路に沿って紹介されるのだが、むろんただの網羅であるはずもなく、その手さばきは辣腕、かつどこか華麗さもある。こうして、序論では①戦争と性暴力、②比較史、③女性のエイジェンシー、④オーラルヒストリーといった論点が示される。いずれも一筋縄ではいかないが、とりわけ「語りを阻害するものと語りを可能にするもの」「歴史の一部でもある自らの体験を語るとはどのような行為であるか」「その時エイジェンシーはどのように生成し行為遂行するのか」といった問題は、私見ではきわめて重要な、いわば歴史とアカデミズムと人間理解の結び目である。重層性と述べたのは、歴史書でありながらこのような思想の書でもあるという本書の特徴ゆえだ。戦時性暴力被害者「ではない」私たちにとっても、この本によって得られるものが多いとすれば、そのためである。各論者は、自らの取材と研究の成果を述べると同時に、このような全体のテーマへの応答を要求される(それは必ずしもスムーズに接続されるようなものではなく、なかには悪戦苦闘もあったに違いない)。また例えば蘭論文(「戦時性暴力被害を聞き取るということ」)は、桜井厚の「モデル・ストーリ」と「マスター・ナラティヴ」概念を用いて、語りを阻害するものについて検討するなかで上野の「モデル被害者」論に触れ、「このようなモデル被害者像が日本軍慰安婦問題/日本軍性暴力に関する言説空間において具体的にどのように構築されていったのか」を真正面から論じたのはほとんど山下英愛のみであると指摘しているが(p.288)、その山下による2016年のシンポジウム報告というのは、他でもない本書に収録された山下論文(「韓国「慰安婦」証言聞き取り作業の歴史」)の下敷きとなったものである。このように序論との関係だけではなく、本書内外の研究者間での相互参照が活発に行われており、たんに「論文集としては統一感がある」といった具合ではなく、独特な知の練成の場といった感がある。各論文を読みつつ註を参照し、ときに「序論」や他の論文を読みかえし、別の本の関連箇所を確認し……と読書としてはかなり能動性を要求されたが(そうしなければ理解出来ないというわけではない。念のため)、そうするうちにふと、「一冊の本を読むとはこのようなことであったか」という、冒頭の感慨に至ったのだった。

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